通い介護の始まりでケアラー人生が幕を開け――どうなる?自分本位の私の人生

母と娘と当事者研究

お久しぶりです。

通い介護のミドルケアラーで、ひとり当事者研究者(いこ専門家)のいこです。


まあまあ長文のプロフィールはすでに投稿していたものの、記事の投稿はこれが初。

母との初めての密着ライフでなかなか自分時間が作れませんでした。

ですが、ついに!


読んでいただけたらうれしいです。



母が退院して2週間ちょっとが経ちました。

母はこの初夏、大腸がんでステージ4と宣告され、その翌日に入院。

手術を受けたもののがんは摘出できませんでした。

ストーマ(人工肛門)は予定通り造設され(ここまでのことはプロフィールですでにお話ししていますので、よかったらご一読ください。)、手術後、母の生活は一変。

それに伴い、私の生活も一変しました。

もちろん母の飼い猫ねこの生活も―――その話はまた別の機会に。

毎日暑いですね。ねこも喉が渇くようで、水をよく飲んでます。皆さまもこまめな水分補給で熱中症に気をつけてくださいね。

Time is life

母が退院してからまだ3週間も経っていなかったと確認して……不思議さに包まれています。

母ががんと宣告されてからとそれまででは、時間の流れ方がどうも違います。

時間の経過が遅く感じるとか、早く感じるとか、充実度や忙しさによって普段から時間の速度はまちまちですが、それとはまた違うものを感じます。

なんというか、時は流れゆくもので、砂時計のイメージの…こぼれ落ちていくもので、掴めないし、抗えもしないし、だだ洩れで、泡沫(うたかた)の…何だろ?というような得体のしれないものに生まれてこの方浸りきって、翻弄されて、何となしに生きてきたわけですが、今は「時は金なり」なんて言葉がありますが、それでは足りない…「時は命なり」と言いたいくらいに時間は貴重で、時間が生きていることそのもののように感じられて、「時間=生命」というようなそんな認識が常に私の背後で待ち受けていて、私に「生きてる歓び」を感じさせまいとしてくれているような…何言ってるか分かりませんよね?ごめんなさい。

とにかく、私は生きている。

母は生きている。

そう力強く感じられる一瞬の煌めきがたくさん散らばっていて、命の尊さを感じさせる何かが勝手にやってきては心を洗ってくれる、そんなミラクル(?)マジカル(?)な時間を、母ががんだと宣告されてから今日まで、過ごしていました。

私にとってこの夏は特別、別格―――人生変えちゃう夏―――なのです(そんな歌ありましたよね?)。


運命を受け入れる

母が退院してからこの2週間余り、私はほとんどの時間を母と一緒に過ごしていました。

そんなことは、本当に本当に小さな子供の時振りです。

保育園に入る前まで遡らなければならないでしょう。

生まれてから(いえ、お腹にいるときから)保育園に入るまでの3~4年の間、私は母と片時も離れようとはしませんでした。

母と一心同体で生きていた私が母のもとから離れたあの日から、37年の年月が経ちました(現在40歳です)。

あれから私と母は別個の人間として生きるようになり、私は母の手の届かない(と思っていましたが母は常に私の内にいたのですが……その話はまたの機会に)世界を旅していたつもりでしたが、気づけば母のもとに舞い戻り、今私は、母のすぐそばにいて母の一挙手一投足を見守っています。

「私がいこの子供になっちゃったみたいだね。」

「お母さんにもそういう認識があったんだ。」

「あったよ。いこには子供がいないから、私がいこの子供になっちゃったって看護師さんにも話したよ。」

そんな会話を笑いながらできる母と娘になれていて―――よかった。



若かりし頃の私は身体障害者である母のヤングケアラーにはなりたくなくて、母から逃げ回っていました。

ある時私は、本格的な占星術のセッションを受けていました。

私は意を決して占星術師さんに質問します。

「私は将来、介護することになるのでしょうか?」



答えはNoでした。

それまでずっと、なぜ私は母のために自分を犠牲にしなくてはならないのか―――という怒り、不本意にも私の人生を母に捧げることになってしまうのではないだろうか―――という恐れ、といった重苦しさを人知れず抱えていたのですが、占星術師さんはそのようには言いませんでした。

自分本位の人生をこれからも邁進していけばいいのだと背中を押してもらったのだと勝手に解釈したあの時の解放感といったら……。

そして、あの免罪符を胸に、私はこれまでずっと、自分本位に生きてきました。



この夏を迎えるまで、私は生涯、母の介護はしないものだと思ってきました。

母はこれまでずっと、年をとったら老人ホームに入れてくれればいいと言っていましたし、私もそうしようと思っていました。

それが母の希望だし、何より、私には母の介護などできないし、したいとも思わなかったからです。

ですが、母はそのような年齢に達する前に、ステージ4のがんになり、オストメイト(ストーマと呼ばれる人工肛門や人工膀胱を造設した人)となったことで、人の助けがこれまで以上に必要となり―――と同時に、私の方では不思議なほど自然、というよりも待ってましたというくらいにジャストタイミングで、「母から逃げる私」から「母を守る私」に変容を遂げていました。

というよりも、元に戻っていたという方が正しいでしょう。

母から片時も離れようとしなかった、あの小さな頃の私に戻っていたのです(―――「母を守る小さな私」の話もまた、別の機会に)。

とにもかくにも、母のがんが明るみになる少し前から、「できるだけのことを母にしてあげたい」「母を助けたい」「母を守るのは私の役目だ」という気持ちに幸いにも変っていたので、その時が来たらもう何の抵抗もなく母の介護を始めることができていました。

ケアラーになる

いえ、介護というほど大変なことなどしてはいないのです。

私は、母の代筆者で、母の家政婦で、母の痛む腰をさすってあげることくらいしかできない無力なただの娘であって、ただそれだけ、普通のことをしているだけです。

下の世話もしなければ(ストーマ装具の付け替えは入院中に看護師さんから指導を受け、できるようにはなっていますが、今のところ訪問看護師さんたちにお任せしています)、食事や入浴の介助も必要ではないし、意思決定も本人ででき、介護などというには言い過ぎだなと思う程度のことしかしていません。

通い介護というより、通い同居くらいなものかもしれません。

病気で体の不自由な母親を労わっているだけのことです。

それでも、自宅を空け数日にわたって泊まり込み、母の3食おやつ付きの食事の支度など家事一切をやるのは、なかなか大変なことです(どっちだ……)。



私はケアラーになったのです。

もうヤングではありませんから、中年ですから、ミドルケアラーです。

私はついにヤングケアラーにはなれませんでしたが、40歳を迎え、ミドルケアラーになったのです。



私は結局、回り道をした末に、母のケアラーとしての人生を受け入れたということなのでしょうか。

しかも、歓びをもって。

そして、私は自分本位の人生に終止符を打ったのでした。

しかも、幸福感と共に。

自分本位に生きることが、私の人生であって、私の幸せだと信じてきたのに、不思議ですね。

そのように、私の通い介護は始まり、私のケアラー人生は幕を開けたのでした。


最後までお読みいただきありがとうございました。

この記事を書いている今日は2023年夏、母のがんサバイブ60日目(がん宣告されたあの日から60日が経ちます)。


先日から母は化学療法(抗がん剤治療)開始のために入院中です。


母が副作用に苦しまずに済みますように―――と、ただただ祈っています。

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