いこのプロフィール

はじめまして。

通い介護のミドルケアラーで、ひとり当事者研究者(いこ専門家)の いこ と申します。

よろしくお願いいたします。

のプロフィールを書いているのは2023年6月、大の病院嫌いだった母が急遽入院することになったあの日からかれこれ4週間が経とうという、梅雨時のとあるひとり時間。

朝からしとしとと雨が降り続き少し肌寒いですが、母から預かった猫の〝ねこ〟(〝いこ〟に合わせここでは〝ねこ〟とします)の温もりに癒されながら綴っています。

居間の座布団の上で寛ぐねこ。

の仇のように病院を毛嫌いしていた母を、念願かなってついにこの春、病院へと連れて行くことができ、やっと必要な医療を母に受けてもらうこともできるし母の健康上のことを相談できる場をもてこれで一安心と胸を撫で下ろしたのも束の間、母がステージ4の大腸がんであることが判明したのは今からちょうど1ヵ月前、春が終わり初夏に季節が移り変わったばかりの時のことでした。

癌の進行具合からして人工肛門(ストーマ)は免れないと告げられた母は、当然のことながら多大なショックを受け、「人工肛門だけは絶対に嫌!」と完全拒否。

ですが今では、観念し手術をしてもらうことで無事オストメイト(人口の肛門や膀胱をつけている人)となって、退院と抗がん剤治療の開始に向けてリハビリに励んでいます。

また、看護師さんたちがとても優しく親切にしてくれるため、思いの他入院生活を楽しんでいるようです。



ですが、母の大腸にある癌は仙骨との癒着があり、切除することができませんでした。

癌が残されたまま、母のお腹は閉じられました。

癌が残ったままの母にこれからどんなことが待ち受けているのか、それを考えると不安でなりません。



はいえ、私の日常は今のところ、穏やかそのものです。

私はもうすぐ41歳になろうという40歳なのですが、自分と同世代の女性が抱えているであろう忙しなさとは無縁の、のんびり気ままな生活を送っています。

仕事もしていなければ、子供もいません。

いるのは夫と、義母と、これから本格的な通い介護が必要となる入院中の母と、その猫一匹。



今、私の横にはその猫〝ねこ〟がすやすやと寝息を立てて眠っています。

〝ねこ〟を夫との二人暮らしの我が家に招き入れ、母が〝ねこ〟と過ごせるようになるまで預かることにしました。

〝ねこ〟の寝顔は平和そのもの。

トイレを粗相したり(高齢のため)、昼夜関係なくニャーニャーニャーニャーニャー……と鳴き喚いている時を除けば、私の心も平和そのもの。

ということで多少寝不足気味ではありますが、そのようなを大変さを差し引いても有り余るほどの可愛さでもって、私の心を存分に癒してくれています。

猫はいいですね。



の40歳という歳は、私にとって大きな節目となりました。

実はそれまでの私には、このような平和な気持ちや穏やかさに十分浸れるだけの心の余裕などはありませんでした。

感情的な痛みによって心が塞がれていたからです。

その原因の多くが、母との関係性に由来する心の傷でした。

その傷が癒え、心を解放できたのが40歳というタイミングだったのです。



アルツハイマー型認知症だった母の母親、私の祖母が亡くなったのは今から4年程前のこと。

母は自分の身を削るようにして、祖母の介護を長年に渡って行ってきました。

母の心は祖母を十分に世話してあげられたことに満足しているようでしたが、体は見るからに衰弱し疲れ切っていました。

祖母が亡くなってから少し経って落ち着いた頃、そんな母を見ていられなかった私は、病院へ行くことを強く勧めました。

ですが、「病院に連れて行くから行こう」という私の経っての願いは受け入れられませんでした。

あれからも折に触れて病院に行くことを勧めてきましたが、母は頑として拒否。

あの頃から病院での何らかの治療を受け始めていたら、母はこんなことにはなっていなかったはずです。



母を早く病院に連れていけなかったことが悔やまれてなりませんが、後悔にも、罪の意識にも、煩わされてなるものかと思っています。

私に今最も必要なことは、私が元気で明るくいることですから。

そうすることで、母の気持ちを軽くすることができます。

母は自分の存在が私の負担になっていないかどうかを常に心配していますから、私が元気でないと母も元気を失いかねません。

母には出来る限り元気な姿を見せ、そして優しく、穏やかに明るく接したい、そう思っています。



が、「言うは易く行うは難し」でした。

母娘は遠慮がない分難しい、というだけの話では済まないただならぬ困難さがあるということを、世にいわれるアダルトチルドレンと自覚される方はもちろんのこと、そうでない方であっても先ほど母との関係性に由来する心の傷云々と少し触れましたから何となくは察しがついているかと思います―――今までの私であれば、いつも母に優しく、明るく接するなんて、できなかった。

以前は母に対し冷たい態度をとってしまうようなことも少なからずあり、何度となく母を傷つけてきました。

ですが、今の私だったら恐らくできます。



母を病院に連れて行こうと誘い続けたこの数年、私はまた別の次元でも母との対話を続けていたように感じます。

この時期、私は母とのことだけに限りませんが、過去のことを洗いざらい掘り出して自分のこれまでを精査していました。

なぜそんなことをしていたかというと、あの心の痛みから解放されたかったからです。

繰り返しフラッシュバックのように襲ってくる苦痛を伴う過去の記憶、被害妄想、また、あらゆるネガティブな感情の疼きと思考の反芻によって、心も体も精魂尽き果ててたのがさらに数年前のこと。

それからなんとか体勢を立て直し、過去と向き合い、私の心に巣食う内なる母と向き合うこと、また私自身と向き合うことができたのが39歳のときのことでした。

私は40歳を迎えるまでに私を縛る内なる母から解放され、40歳を迎えた暁には真に私として生きる人生を始めると心に決め、41歳を迎えようとしている今、そのように生きています。



して偶然とは思えません。

私のこのような内的なワークが一段落して間もなく、母の癌が見つかったこと。

私が母を十全に受け入れ、実際的に母の暮らしへの介入を強化し始めようと一歩踏み出した矢先に、母の癌が見つかったこと。

私が変わるのを待っていたかのように、母の癌は明るみにされました。



「これからは、たまに泊るようにするからね。」

これが、あのとき(母の癌が見つかるほんの少し前)私が言えた、私がしようとしていた、最上級の親孝行の言葉、最上級の親孝行でした。

この春のことです。

私は母の家の、数年間使われておらず埃の積もった離れ(母屋と同じ敷地内に建てられた簡易的な家屋)を念入りに掃除し、ときどき私が母の家に泊まるための準備を始めていました(母屋には母と私それぞれが気兼ねなくゆったりと眠れるだけの十分なスペースがないと私が感じていたため、離れで眠ることにしました。自分一人になれる空間があることで、私は安心して母の家に泊まることができるのです。)

それまでも一人暮らしの母の家を月に2、3度訪れ、買い物に連れて行ったり、手伝い事をしてと母の暮らしをそれなりに助けてきましたが、母を私だけに依存させてはいけない、そんなことになれば母は家の中にこもったまま出てこれなくなってしまう、祖母が亡くなり母一人になった今、社会との繋がりを取り戻させたい、だから私が母に手を貸すのは最小限にするべきだという考えに徹し、もっとやってあげたい気持ちがある時でさえもそれを抑えなければと考える心の葛藤がありました。

また、母には私以上に頼りがいのある姉がいるため、私がそれ以上手出ししなくとも母は叔母も頼りにすることができ、負担は私と叔母とに上手く分散され、そのお陰で母娘の距離感も絶妙に上手くいっているかのように見えていました。

ですが心の内では、私は常に母に対して罪悪感を感じていたのです。

母への手助けは最小限にしようと徹していた本当の理由は、母のためではなく私のためだったから。

私はずっと、母との間に見えない壁のようなものを作って、自らを守ろうとしていたのです。



これまでの私の心の奥底には「母に呑み込まれてしまう」そんな恐怖がありました。

ですから、母に対してやってあげたいという献身的な気持ちを無防備に晒すことなどできませんでした。

ですが、その恐怖が消えると、もっと母の暮らしに踏み込んでいっていいし、そうしたいと自然と思うようになっていました。



生まれつき体が不自由で、また何かと体調を崩しがちな体の弱い母を労わってあげたくて、ときどきは泊まり込みで家事やマッサージをゆっくりしてあげよういう計画でした。

私の母に対する心のブロックが解けていることが、私自身の気持ちや思考の変化に表れていました。

母とよりたくさんの時間を過ごしたい、その方法を考えそれができると思うだけで、心は満たされていたのです。

この春も夫と、母を連れて3人で桜を見に出かけました。今年は水仙とのコントラストが明るいお花見スポットに。母は黄色の花が大好きで、今年のお花見は例年以上に満足していました。

ですが、その準備を終えて初めてその離れに泊まることになったのは、私が思い描いていたような穏やかな日常の中の一日ではなく、入院が急遽決まったその日、入院の前日、母がステージ4の大腸がんであることを知ったその日でした。

母はステージ4の大腸がんであることを宣告されると同時に翌日入院することになり、私はその支度をするために母の家に泊まることにしたのです。

離れの大掃除が、実は母のがん治療とオストメイトになる母を支えるための通い介護の準備であったなんて思いもしませんでした。

そうとは知らずに私は母の家に自分の居場所を作り、頻繁に母の家に泊まりながらすることになるであろう通い介護の準備を整えていたのです。

不本意にも、その準備万端でした。

とはいえ、心の準備まではもちろん出来てはおらず、その晩は離れの部屋で一人、眠れぬ夜を過ごしました。



とのこれまでのことをこの1ページだけで語り尽くすなんて到底無理ですし、私のこともこのプロフィールだけに集約し尽くせそうにありません。

だって、皆さんと分かち合いたいことがたくさんあって、お話ししたいことが次から次に溢れ出てきそうなのです。

だから、これからこのブログ全体を通して、母とのことも私のことももっと綴っていければと思います。

このブログ『母のEnd Of Lifeに』は、そのためのブログです。

がんサバイバー家族〉と〈母と娘と当事者研究〉という2つのカテゴリーそれぞれに、母のサバイブと通い介護する日常とがんサバイバー家族のこと、幼少期から抱えてきた心の傷を癒しミドルケアラーとなった私のことを綴っていきたいと考えています。



当然、心の浮き沈みがあることが予想されます。

パソコンに向かえないことが続くこともあるかもしれませんし、このようなブログを続けられる自信も正直言うとないのですが、同じような生きづらさを抱えていたり、同じような境遇で育っていたり、同じような経験をしてきていたり、同じがん家族であったり……、私の思いと経験を分かち合える方と分かち合いたいと思い、思い切ってこのブログを始めました。

そして、初めて綴ったこのページが、このブログ全体の前書きのようなものとなりました。

では次は本題にとスムーズに行けばいいのですが、まだそれを書く算段がついていません。

母のEnd Of Life=人生の最終段階、最終章とも言えるこれからの生活が始まるのもまだこれから。

母の退院はまだこれからなのです。

抗がん剤治療が始まるのもまだこれから。

この数週間の間にあまりにも多くのことが起こり、すでにパンク寸前となっていましたが、まだ始まってもいないなんて、どうなることやら……。



りあえず退院後には抗がん剤治療が始まる……それだけは分かっています。

ですが、これからの母と私にどのような未来が待ち受けているのかは、当然のことながら本当には分かりません。

不安?―――もちろん。

怖い?―――もちろん。

ですが、大丈夫だって何故だか思える。

それに、不思議と希望もあります。

現実逃避?無責任?―――違います。

癌であっても母が今生きていることには変わりありませんし、癌であっても母がこれからたくさんの幸せを享受することはもちろん可能です。

同じように私も、母が癌であっても不幸せになる必要もなければ、幸せであることを諦める必要もない。

私は私の幸せに責任があります。

ということで、私は幸せであり続けることを選択しますが、それ以前に今私は、これまで以上に幸せを感じています。

母と自然に心を通い合わせることができるようになった今、私の心は温かなもので満たされていて、軽やかで、開かれています。



とはいえ、やっぱりこれから何度となく、浮き沈みするのでしょうね。

抗がん剤治療は本人だけでなく、そのすぐそばで見守り支えていく家族にとっても、非常な心の痛みを伴うものであるのでしょうから。

だからこそ、気を確かに、できるだけ平和に穏やかに、できれば明るく元気に、十分楽しく生きることを常に心掛けていきたいと思います。

体が病に侵されようと気まで病まないことは大切だといいます。

同じように、母が病んでも私まで病まない、とにかく私が元気で明るくいることが私ができる最上級の母への献身であり、最も母の幸せに貢献できることだと思います。



ということで、浮いたり沈んだりしてもまた浮きあがって、元気に明るく、気の向くままにこのブログを綴っていこうと思います。

ですから、皆さまにも、気の向くままに読んで頂けたら幸いです。

長い文章になってしまいましたが、最後までお読みいただき、ありがとうございました。

2023年6月 いこ

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