母がステージ4のがんだと宣告されたあの日と余命|がん家族の気持ち

がんサバイバー家族

こんにちは!

通い介護のミドルケアラーで、ひとり当事者研究者(いこ専門家)のいこです。


ところで〝ひとり当事者研究者〟〝いこ専門家〟とは何のことだろ?と疑問に思われている方もいらっしゃるかもしれませんね。

詳しい説明はまたの機会に持ち越すとして、簡単にその意味するところを申し上げます。

私は私のスペシャリストであって、私は私の心と体と寄り添うことを大事にしている人間です、ということです。


今回は、そんな私の、がん家族となってからの60日余りの心模様、まずは1日目と2日目の日のことを主に振り返り、綴ってみたいと思います。


考えもしなかった「ステージ4」と宣告され

母がステージ4のがんだと宣告されたのは、今から62日前のこと。

その一週間前に行われた大腸内視鏡検査の直後すでに、がんであることは間違いない旨を伝えられていたので、私も母も母が大腸がんであることは組織検査の結果を聞く前からすでに分かっていました。

ですが、まさかそのがんが「ステージ4」だなんて考えもしなかった。

急を要しているような、深刻そうな先生の口調から、母のがんがそれほど浅いものではないことは察しがついていましたが、それでもステージ2、悪くてステージ3、どうかステージ3まで達していませんようにと祈る思いで私はいたのです。

ところが、実際は私の予想をはるかに飛び越え「ステージ4」だということが告げられます。

一瞬頭が真っ白になって、母を気遣う余裕すらなくなりそうで、どうしていいのか、どう思っていいのか、どう考えていいのか、私はここでどう振る舞えばいいのか、だって私が泣いたり悲しんだり狼狽えたりできるわけがないじゃないですか、母がいるのに。


母は知らない母の余命

母は「ステージ4」という先生の遠慮がちに発せられた言葉には何の注意も向けず、その少し前に登場していた「人工肛門」に心を捕らわれ自分の殻に閉じこもってしまっているかのようで、先生の説明を理解する余裕などなかったでしょう。

また母は、「ステージ4」という言葉の意味が、幸いにも分からなかったのです。

幸いにも……本当に?幸いなのでしょうか……幸いだと思います。

でも、私だったらどうだろう?

私は知りたい。

ですが、母は知らない方がいいと、私は思います。

母は心を乱されることを最も嫌います。

母は嫌なことと向き合いたくない人です。

母は嫌なことから目を背け、ないものとします。

母はそれが出来る人です。

私にはできない。

母は平和を常に選択するのです。

そういう人です。

それが分かっていても、本当に母に「ステージ4」の意味を伝えなくていいのかどうか考え込んでしまったこともあります。

先生は母の気持ちに寄り添うように、オブラートに包んでマイルドにお話しししてくださいます。

あのときも、そのあとも、母は余命についてはどの医師からも聞かされることはなく、「ステージ4」の意味も、その言葉を再び誰かから耳にすることも、今のところないのではと思います。

恐らく母のことだから、「私はどのくらい生きられるのでしょうか?」などと聞くことはしていないと思います。

私ならすぐさましますが。

退院後、母は私に10年後の話を何度かしました。

「10年後はもう一人で暮らせないだろうから、施設に入れてね。」

「10年くらい大丈夫かな。」

「あと10年くらいは……」

私の反応を見たいのかな、と思ったこともありましたが、ただ母は、自分に言い聞かせているようでした。

母は探りを入れていたわけではないのです。

私なら探りますが、母は私とは違います。

心のどこかに自分は長くは生きられないのではと疑う気持ちがあって、そんな気持ちに惑わされたくなくて、乱されたくなくて、明るく蹴散らかしてしまえと10年後の話をしているようでした。


あのがん宣告のあと母抜きに先生と話した会話の内容、「余命」については、母に伝えるつもりはありません。


30か月―――それが母の余命だと宣告されたわけではありませんが、30か月。

先生の口から余命ともとれる言葉を聞いて、私の心は押し潰されそうになり、私は小さなパニックを起こし、私は涙を堪えることができず、でもすぐに堪え……抱えきれないけど、抱えるほかなく……母と病院から戻り、母の家(離れ)に初めて泊まったあの夜、眠れず、何を考えていたのだろう……思い出せません。

母の入院当日の朝

頭が痛かった。

でも、母の前では笑っていたかった。

だから、私は実際、笑っていました。

入院するその日、がんの宣告を受けた翌日の朝。

「お母さん、せっかくだから入院中に、障子貼り直してあげるね!」

母に笑ってもらいたかったから、私が今できること、母が喜ぶことを見つけられて私は笑っていました。

このときばかりは母も、ずっと苦になっているのに一向に誰も手をつけたがらない障子(ねこに引っかかれビリビリにされていた)が、ついにきれいにしてもらえることなどどうでもよかったようで、母のうれしがる反応を見ることはできませんでしたが、それでも私は、母が気持ちよく退院して来れるように、母が入院中に少しでも気持ちが明るくなれるように、何かしてあげられることがうれしかったのです。

母のがんサバイブ2日目はこうして始まり、母は医師と看護師さんたちに温かく迎え入れられ、初めての入院生活へと突入しました。

病院に母を預け一人になった私は、母の家に戻るとゴミや荷物を大急ぎでまとめ(体力が尽き果てそうだったからです、その前に家に帰りついていなくてはなりません)、母のねこを車に乗せると、盛大に泣きじゃくりながら家路へと向かいました。

我が家に到着した直後のねこ。「借りてきた猫」とはこのこと?というくらいに隙間や端っこにちょこんと佇む姿。ご安心ください。ねこはすぐ、我が家に慣れ、夫にも懐きました(もともとある程度懐いていたので)。

やっと思う存分泣けて、家路について、ねこが夫に、我が家に迎え入れられて、眠り、すると、そこら中に舞った感情が鎮まっていったのですが、その後もまたいくつかの感情的な痛みが障り、これは私だけの痛みではない、がん家族の痛みなのだろう―――そう思い至ったお話しはまた別の機会に。


とにかく、がんの宣告を受けることは、本人だけでなく家族にとってもあまりにもショックなことであり、一人で抱えられるような代物ではありません。

がん家族もまた第二の患者と言われます。

家族ががんになったことで心を痛め、苦悩し、ストレスを抱えているとしたら、ケアする存在でありながら、ケアされるべき存在でもあります。

家族ががんになったら―――自分のことも労わってあげないといけません。

私は自分を労わっています。

皆さまもどうか、ご自愛ください。

最後までお読みいただきありがとうございました。


母の退院は1日伸びて、また、あさってとなりそうです。

抗がん剤の副作用がでてきたようで、昨晩の電話では元気な声を聴けませんでした。

これ以上苦しむことなく済みますようにとただただ祈るしかありません。


今日はこれから、昨日タコスを作る夫の横で作っておいたボルシチを、義母に届けに行きます。
ちなみに母は、ビーツが嫌いです。

母には食べ慣れたものを、義母には珍しいものを作ってあげると喜ばれます。

両極端な母たちです。


それでは、また。



多少重複している内容ではありますが、もし私と母に興味をお持ちいただきましたらぜひ、こちらのプロフィールもご一読ください。

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